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康治二年(1143)二月
阿蘇大宮司宇治惟宣解<だいぐうじうじこれのぶげ> 刊本2号 (1/3)
のちに安楽寿院<あんらくじゅいん>領とされる王家領阿蘇社(荘)の年貢の所済<しょさい>状況を報告した文書。大宮司惟宣が保延三年(1137)から康治元年(1142)までの年貢の状況を領家の中院<なかのいん>(源)雅定に報告し、同家の政所が確認の「勘合<かんごう>」(朱筆なので 「丹勘<たんかん>」と言う)を行った。安楽寿院は、保延三年十月、洛南の鳥羽離宮に隣接して鳥羽院の御願寺<ごがんじ>として建てられ、阿蘇荘はその料所<りょうしょ>とされたようである。保元元年(1156)鳥羽院が没すると、安楽寿院内の新塔院に葬られた。そして平治元年(1159)鳥羽院皇后の美福門院によって阿蘇社は、新塔院の末社とされた。なお、年貢は米と素絹<そげん>を主とするが、本文書の記載では、年貢の運送に当たる梶取<かんど>りの名前や、「肥後国農料」・「球磨紙」などが注目される。紙継目裏には、報告と勘合に対応する黒・朱二つの裏花押がある。なお、冒頭に「除甲佐社定」とあることから、この時点で、すでに甲佐社も阿蘇社末的な関係になっていたことが知られる。阿蘇文書での「大宮司」の呼称は本文書が初見である。(工藤)