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建武二年(1335)十二月廿七日
上島惟頼軍忠状 刊本92号
上島惟頼が十二月十一日の筥根<はこね>山城での足利直義軍との戦いに際し、防御柵を攻撃した時に左肩上と腰骨を負傷したので、この軍忠に対して後々のために一見状<いっけんじょう>をもらおうと提出した軍忠状である。「承訖(花押)」とあるように証判(菊池武重か)を得て返付された。十一月廿二日に惟頼に対し鎌倉への発向<はっこう>をもとめる後醍醐天皇綸旨(刊本87号)がだされており、これに応じての参戦であった。『太平記』によれば、菊池武重が先懸けを勤め、「敵三千余騎ヲ遙ノ峯へ巻上ゲ、坂中ニ楯ヲ突雙テ、一息継テ怺ヘタリ。是ヲ見テ、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曽(阿蘇)・熱田ノ大宮司、一勢々々陣ヲ取テ、曳声ヲ出シテ責上々々、叫喚デ戦タリ」とある。同日付けで惟頼に宛てた阿蘇惟時の見知状<けんちじょう>があるので、惟時と共に行動していたことがわかる。また、阿蘇品惟定もこの戦いに参加している(刊本80号)。(柳田)