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正平三年(1348)九月 日
恵良惟澄<えらこれずみ>軍忠状 刊本122号 (2/3)
恵良惟澄が、この年一月に肥後入国を果たした懐良親王の在所である菊池征西府へ提出したと推定されるきわめて長文の軍忠状。江戸時代には『群書類従』に採録されたほど著名な文書である。証判はないが、紙継目裏に五条頼元の花押がある。元弘三年(1333)に阿蘇大宮司惟直とともに河内国金剛山へ参上して護良親王から令旨<りょうじ>をもらったことにはじまり、備後国鞆浦<とものうら>から帰国して以降、阿蘇郡鞍岡での合戦から正平元年(1346)にいたるまでの軍事的功績を記している。希少な軍忠状だけあって、合戦の日時や場所、城郭名、戦いの相手や味方の人物名、戦闘の様相などが詳細に記されている。こうした記述の具体性や細やかさは、阿蘇文書の中でも随一であり、とくに内乱初期十年間の様相を知る上できわめて貴重な史料である。惟澄にすれば、元弘の乱以降、自ら七ケ所の疵を負い、一族郎党百余人を戦死させた犠牲の割には、処遇の不十分さに対する憤懣がかなり鬱積していたことがうかがえる。(柳田)