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貞和五年(1349)九月廿日
河尻幸俊願文<がんもん> 刊本127号
河尻幸俊が阿蘇社に提出した立願文<りゅうがんもん>。この年九月十三日、足利直義の猶子直冬<ただふゆ>は備後国鞆浦の大可島<たいがしま>城に居たところを、高師直<こうのもろなお>方の杉原又四郎から襲撃された。からくも逃れた直冬は幸俊に導かれて河尻津に上陸し、官途である兵衛佐<ひょうえのすけ>にちなみ「佐殿方<すけどのかた>」という一大勢力を形成した。この立願文は、幸俊が、直冬ともども阿蘇氏勢力の援助を期待して出したものである(直冬立願文は原本は失われ、写第6にある)。幸俊は、直冬の所願成就<しょがんじょうじゅ>と自らの願いをかなえるべく、直冬による阿蘇荘寄進(安堵)と自己の所領の一箇所の寄進を約束した。河尻氏は寒巌義尹<かんがんぎいん>を開山とする大慈寺の外護者として知られる在地領主である。このころ幸俊は、肥後国内での活動はもとより、貞和二年(1346)三月には京都の高辻高倉の東南の角地を屋敷地として購入しており(田中教忠所蔵文書)、軍事力・経済力を駆使して中央権力とも太いパイプを有する国人<こくじん>であった。本文書は、願文という性格からして幸俊自筆の可能性が高いが、花押の一部を焼失している。(柳田)