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(自正平七年至永和三年・1352-1377)
甲佐社造営遷宮以下日記写 刊本264号 (1/5)
「大日本古文書」の文書名は「阿蘇社等」とあるが、内容は正平七年から永和三年にかけての甲佐社造営関係記録を宝徳二年に書写したもの。甲佐社は延元三年に社殿のほとんどを焼失しているが、以後南北朝内乱の地方波及によって、肥後の中央部に位置し、各地をつなぐ要衝の地にあった甲佐は政治的に不安定であり、仮殿<かりどの>のまま一〇余年を経たとみられる。正平七年頃から菊池氏の擁する征西府の勢力が強くなり、肥後の政情も安定して来る中で、造営の動きが生じたといえようか。
正平七年から造営料木が集められ、九年には柱立がはじまり、正平十一年には本殿遷宮が行われていることが分る。ただし、この文書は造営に関する祭事と祭料・作料などの覚書の集成というべき内容で、本殿と阿蘇殿がまず造営されたことは分るが、他の社殿造営についてはほとんど分らない。一方、内乱後期には、勧進僧による造営推進の状況も窺われて興味深い。(阿蘇品)