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148 第11巻 - 10 聖璨・実信連署請文 刊本197号
149 第11巻 - 11 将軍家(足利義満)御判御教書 刊本198号
148
聖璨・実信連署請文 刊本197号
149
康暦元年(1379)閏四月廿三日
将軍家(足利義満)御判御教書 刊本198号
将軍足利義満が九州探題の今川伊予入道(了俊<りょうしゅん>)に発給した御教書。阿蘇大宮司惟村の「訴訟」について、惟村が武家方として出陣・忠節することを条件にこれを聞き届ける旨を、義満自身が了俊に伝えている。「阿蘇家文書写 第7」に含まれるこの時期の今川了俊書状によると、惟村は了俊の求めに応じて、阿蘇惟武・惟政父子の根拠地たる阿蘇南郷や、肥後南部の南朝勢力(宇土氏や八代名和氏など)を攻撃していたが、彼はその見返りに、探題分国<ぶんこく>となっていた肥後国の守護職を自分に預けるよう求めていた。この文書にある惟村の「訴訟」というのも、肥後国守護職への任命要求をさしている。要求の結果、惟村はこの年の九月には守護職を手中にし、将軍・探題から闕所地支配権などが付与されたが、南郷の惟武・惟政父子との対立はながく継続することになる。(稲葉)