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至徳二年(1385)八月五日
将軍家(足利義満)御教書 刊本201号
「阿蘇家文書写 第7」に収録されている今川了俊書状の数々には、十四世紀後期に探題として九州平定をめざした了俊にとって、益城郡以南の諸領主を誘引・攻撃するために、阿蘇惟村がなくてはならない存在であったことが示されている。この足利義満御教書は、肥後南部の諸領主のうち、武家方として忠節した者、宮方領主のうちでも交渉次第では武家方に寝返る意思のある者については、ともに、幕府・了俊としては惟村からの報告に任せて処遇すべき旨を伝えている。至徳二年(1385)は、了俊による肥後南郡総攻撃の五年ほど前にあたるが、この時期における幕府・了俊の肥後計略が、惟村に強く依存して行われていたことを示す文書である。差出は幕府管領の斯波義将。(稲葉)