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建久六年(1195)正月十一日
北条時政下文<くだしぶみ> 刊本6号
阿蘇社(荘)の預所<あずかりどころ>北条時政が、前年閏<うるう>八月十五日の宣旨による阿蘇荘の片寄<かたよ>せに基づき、阿蘇惟次に阿蘇南郷<なんごう>の支配権を認めたもの。「往古屋敷の由を申せしむるによって」とある。この往古屋敷は、現南阿蘇村中松の二本木前遺跡に比定されている。おそらくは、阿蘇氏本宗は大宮司を称し武士団を形成する十二世紀前半の段階で南郷に本拠を移したものと考えられる。なお、公地公民の律令制下でも屋敷地は私有が認められていた。この宅地私有の論理によって、阿蘇南郷への支配権主張の根拠としていることも注目される。なお、宇治惟次の正式の大宮司補任<ぶにん>は、翌年の建久七年八月一日である(刊本10号)。源平の内乱で、菊池氏とともに平家方であった阿蘇氏に対し、鎌倉幕府は、阿蘇荘を事実上関東御領<ごりょう>化し、北条時政を阿蘇荘の預所=上司<じょうし>とすることを認めさせた。これにより阿蘇大宮司は、現地管理者=下司<げし>となり、北条氏の補任・監督を受けることになった。(工藤)