高橋隆雄先生(大学院社会文化科学研究科 )

””

Q.先生の専門分野についてお教えください。

 私の専門は、広く言えば倫理学です。大学時代に専攻したのは哲学です。
哲学と倫理学との関係は、哲学の一分野が倫理学だと考えていただくとわかりやすいですね。

 倫理学の中でもいろいろと分野がありますけれども、この10年ほど力を入れてきたのが生命倫理学です。20代のときには抽象的な哲学、30代の終わりくらいから環境倫理学、政治哲学に関心をもちまして、現在は生命倫理学に最も関心があります。欧米の倫理学や思想だけでなく、日本思想を取り入れた応用倫理学について考えています。

Q.この研究をはじめられたきっかけは何ですか?

 我々は紛争世代なんですね。大学の教養のクラスでは浪人して大学に入った同級生が半数を占めていたのですが、彼らにしばしば「マルクス、エンゲルスは読んできたか?当然読むべきだ。」と言われました。ところが、読んでいくと面白くて、勉強会をやったり議論をしたりして、そのうちに哲学の歴史を遡っていきました。マルクス、エンゲルスからフォイエルバッハに行ったり、ヘーゲルやカント、それ以前にまで行ったりしました。

 もうひとつの方向として、実存主義という哲学的立場に影響を受けました。大学2年のときにニーチェを読みました。今、「ニーチェの言葉」という本が売れていますね。ニーチェの言葉には人を動かす力があるんですね。だからあのような本が出るのは当然だと思います。そのニーチェを大学2年の時に読んで、非常に驚いて、鳥肌が立つくらい感動しました。それが哲学を本格的に勉強しようと思ったきっかけですね。大学院ではカントの認識論やヴィトゲンシュタインの言語哲学といった抽象的な哲学を学びました。けれども、哲学に入ったきっかけが実践的なことだったので、次第に倫理学の方向へ関心が向くようになったのです。

Q.現在の研究について教えてください。

 環境倫理学や生命倫理学に取り組んだ時に疑問を持ったんですね。なぜ日本の環境倫理や生命倫理を研究する人たちは、アメリカやヨーロッパの理論を学んでばかりいるんだろうと。

 倫理学とは、ある社会や国、職場や職業などにおいて生ずる善悪正邪にかかわる問題を考えるものです。
生命倫理は生命科学や医学の領域の問題を扱い、「生命道徳」とは言いません。
 道徳というのはもっと一般的で領域に限定されず、どんな時どんな所でも人間が生きるべき仕方を問題にしています。一方、倫理というのはたいてい領域限定型なんですね。

 環境倫理も人間と環境の望ましいあり方を考えていくもので、環境道徳とは言いません。
 倫理を学ぶということは、ある領域や分野に限定された理論や規範を考えることです。
 ですから、生命倫理といってもアメリカ、ヨーロッパ、日本、アジア各国でみな違うんですね。みんな違うにも関わらず、アメリカやヨーロッパから生命倫理学や環境倫理学を輸入して、その理論だけを学ぶことに疑問を覚えました。

 哲学は普遍的・抽象的なものであり、道徳哲学というのもやはり抽象的でいいと思います。しかし倫理についてはある団体、領域、国という枠の中で理論構築すべきだと思います。
 そういう意味で、日本の現状に根ざした、日本の土壌、文化的風土、慣習そういったものを踏まえた環境倫理、生命倫理であるべきだと考え、これまで主張してきました。
 当然そういうことを踏まえていかないと本当の意味での倫理学、具体的な現実を扱う応用倫理学の研究としては不十分ではないかと思います。

Q.今後の研究や抱負について教えて下さい。

 3月11日に起こった震災が僕の中に非常に重くのしかかってきています。なんとかしないといけない。なんとかするというのは、我々としては、ボランティアに行くよりも、それを思想として思想的課題としてとらえていくことが大事ではないかと思っています。

 日本の環境倫理は、今までアメリカの環境倫理を輸入していました。アメリカの環境倫理の特徴というのは自然保護なんですね。アメリカは荒々しい自然があるにも関わらず、保護を中心とした環境倫理学になっている。日本も大方はそれを追随していますが、その中には防災という考え方がほとんど入ってきません。

 例えば、あるアメリカの環境倫理学者の説では、生態系を保護していくことが最優先されます。自然という大きな営みから見ていくと、生態系が壊れるということは大問題なんだけれど、災害がおきたとしてもまた別の生態系が復活してくる。これは繰り返されてきたパターンであると考えます。ただ人災が入ってくると、生態系そのものをどうしようもなく壊すことになりかねない。だからそこのところは人間の手から保護しなければいけない。自然による災害がおきてしまってもそれはそれでいたしかたないという考えですね。

 だから防災などは理論の中に入れない、むしろ排除していくんですね。そういう点では日本の環境倫理学も防災ということを念頭にほとんど置いていない。聞こえのいい「自然と人間の共生」という言葉が流行っていますが、人間と自然との関係はそのような美しい言葉で表現できるものではないと思います。

 ですからこの震災を契機に、防災ということと保護ということの両方を取り込んだ環境倫理、環境哲学を考え直さないといけないと思っています。そういうことを考える上でのベースは、欧米のものではなくて日本のものを求めるべきだと考えています。

 一番基本にあることは何かというと、日本では人間と自然との関係は人間と神との関係とほぼイコールなんですね。人間と神との関係をもう一度考え直す方が有意義だろうと思っています。

 人間と神との関係というのは僕がこの十数年考えてきた生命倫理学の基本テーマです。医療の話をしながら、実は人間と神の話を一番基礎に持ってきています。

 人間は神にケアしている、そこには命と命の関係があるいう考えを持っています。ケアといっても、やさしいケアではなくて、ケアをしないと向こうが暴れるのでケアするといったものです。それでは身も蓋もないように聞こえますが、例えば赤ちゃんへのケアが典型です。赤ちゃんはかわいいけれど放っておくと暴れてギャアギャア泣きますね。静まってもらうために世話をします。世話するうちに、世話しないといけないという気持ちが自分の中に高まってきます。そして、静まってくれるとものすごく平和な気持ちになります。

 これが人間と人間、人間と神、人間と自然の関係の基本形だと思います。そういう意味で人間と自然がうまく共生して気持ちいい関係になっているというのは、赤ちゃんの世話をした後でいい関係になっている状況だと思いますが、一時間、二時間したら赤ちゃんはまたギャーって泣き出しますね。いつも一時期だけ共生があるけれどもすぐに壊れてしまう。それが命と命の関係です。

 3年前に『生命・環境・ケア―日本的生命倫理の可能性』という本を書きましたが、そこで書いたことが自分の思想のベースとしてあります。それを踏まえてこの大震災の思想的な意味を再検討しようと思っています。

 清水幾太郎という社会学者が関東大震災について述べた論文があります。その中で、日本人は大きな災害があってもすぐに忘れてしまうと指摘されています。例えば東日本大震災についても「今回の震災」といったりしますね。一度の災害として特別視せず、過去にもあった、次もやってくる、一回限りではなくて、繰り返してやってくる、そういったパターンとしてとらえています。しかもそれは神からの罰であるといったように、人間が理解可能なものと解釈されます。清水氏は、人間と神との関係を自然の循環のうちに置くような考えをやめるべきと主張します。

 18世紀半ばにポルトガルのリスボンで大地震が起きて1万何千人が亡くなっています。その大地震をきっかけにして、世界は神がつくった最善のものであるという思想が批判されていきます。他にも色々と批判はあったのですが、大地震が大きなきっかけとなりました。この頃から、神の作った最善の世界というよりも、人間が世界を最善のものにしていかなければいけないんだという啓蒙精神が力を得ていきます。

 リスボン大地震というのは、そういった思想の大変革を後押ししたけれど、リスボン大地震の十倍もの死者を出している関東大震災は思想的変革を一切生まなかったと清水氏は憤りを持って書いています。
 今回の震災でも、また数年後元に戻ってしまうのであれば、清水幾太郎の憤りと同様のものを後で他の誰かが持つかもしれない。苦しみが苦しみだけで終わってしまう。それを非常に心配しています。

 我々日本人というのは、どんな所に住んでいて、どんな思想で生きてきたのか、これからはどのように生きるべきか、そういった基本的なことがらについて自覚することをそろそろ考えようじゃないか、と思っています。
これがこの半年間で与えられた僕自身の思想的課題だと考えています。

Q.先生が「熊本大学学術リポジトリ」を知ったきっかけを教えてください。

 熊本大学文学部倫理学研究室から『先端倫理研究』という紀要を出版しています。2006年3月に学術雑誌登録してしばらく経った頃に図書館から熊本大学学術リポジトリに紀要論文を掲載してみないかというお知らせがありました。それからリポジトリに論文が掲載されるようになりました。

 この紀要には、大学院生も論文を掲載しています。
 自分の論文をリポジトリに登録している大学院生が、毎月送られてくる自分の論文のダウンロード情報を見て「こんなにアクセスされた!」と喜んでいました。日本中に読まれていることがわかります。数年経っても、まだダウンロードしてくれている、あれは嬉しいですね。とても励みなると思います。

 先端倫理研究 目次

Q.論文をどのような人に読んでもらいたいですか?

 研究者、学生ですね。できれば高校生にも読んでもらえたら、と思います。

Q.「熊本大学学術リポジトリ」に限らず、他大学のリポジトリに登録されている論文をご利用になったことはありますか。あれば感想やご要望をお聞かせ下さい。

 我々研究者はリポジトリを頻繁に使っていると思いますよ。例えば、ある概念を調べる際に辞書を見てもほんのわずかしか掲載されていないけれども、ネットで論文検索をするとおもしろい論文がヒットすることがあります。とくに、自分が専門としていないところでよく使います。

 アニミズムについての研究会を行った際に、普段はあまり読まない領域なのでネットから20~30程度の論文をダウンロードして片端から読みました。そうすると、現在の水準がどうであって、どのような議論がなされているのかということある程度までわかります。非常に便利ですね。

Q.「熊本大学学術リポジトリ」についてご意見,感想をお願いします。

 毎月送られてくるダウンロード・統計に関するサービスはとてもいいと思います。

Q.オープンアクセスについてご意見、感想をお願いします。

 学問の発展にとって必要ですね。日本中オープンにしてもらいたいと思います。

 高橋先生、ありがとうございました。


インタビュー日:2011年9月20日
インタビュー担当:新野(教育研究推進部図書館ユニット 電子情報担当(当時))
記録担当:廣田(教育研究推進部図書館ユニット 利用相談担当)