(慶長14年)正月17日 『細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)』<ほそかわ かろうしゅう かいじょう(ちよひめさま へ おんれい もうしあぐる しだい)>【熊本大学所蔵 松井家文書】

慶長14年(1609)4月、細川忠興の子息で後に細川家初代熊本藩主となる忠利は、徳川秀忠娘(実は小笠原忠真(ただざね)娘)の千代と婚礼をあげる。本文書は、時の細川家老松井康之と加々山興良が忠興の意をうけて、一族重臣衆とその女房衆から千代姫へ進上する祝儀の品を個別に書き上げ、重臣らに回覧させ、確認の花押(かおう)(サイン)を取ったもの。

たとえば忠興の弟である中務(なかつかさ)殿(長岡孝之)の場合、本人と御内儀(妻)がそれぞれ縫泊(ぬいはく)練貫(ねりぬき)の小袖各1を進上すると定める。祝儀の品をめぐるトラブルを事前に避けるため、将軍の娘との婚礼についての先例や細川重臣どうしの格式などを踏まえて忠興と家老衆のもとで調整がなされ、その案に、各自の確認が求められたのであろう。慶長期の細川重臣の花押を通覧するのも楽しい文書である。

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表からみた画像『細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)』(部分)

忠利は肥後国熊本藩の初代藩主。忠興とガラシャの子で、幽斎(藤孝)と明智光秀の孫。
千代姫は将軍秀忠の養女で、徳川家康と織田信長のひ孫にあたる血筋。
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裏からみた画像『細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)』(部分)

本文書は虫喰い・破れなどで損傷していたが、欠損した箇所を中心に修理を実施した。
表面とともに裏面を確認すると、巧みな修理の様子がわかる。裏に染み込んだ細川家重臣たちの花押(サイン)も鮮やかである。
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(慶長14年)正月17日 細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)(ほそかわ かろうしゅう かいじょう ちよひめさま へ おんれい もうしあぐる しだい) [寸法 36.3×92.4cm]【熊本大学所蔵 松井家文書

解説者情報
稲葉継陽 永青文庫研究センター長