オンライン貴重資料展 「甦った絵図と古文書」公開
令和2年度の貴重資料展は、「甦った絵図と古文書」をテーマに準備を進めていました。当代一流の職人たちの手により現代に甦った貴重資料の数々は〝初公開資料の宝石箱〟ともいえる興味深い展覧会となるはずでしたが、残念ながら開催を見送ることになってしまいました。そこで、毎年資料展へ足を運んでいただく方々へ、別の形で楽しんでいただけるように 特設サイト【オンライン貴重資料展】を開設しました。
〝初公開資料の宝石箱〟の中から「肥前国有馬城之絵図」、「細川忠興駿河御普請中掟」、「細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)」の3点を厳選し、修理前・修理後の状態を公開します。甦った絵図と古文書を是非お楽しみください♪
※画像内の白い線(スライダーバー)を動かしてみてください。
境界線を右か左に動かすことで、修理前(Before)と修理後(After)の画像を比べることができます。
修復前と修復後の比較
(寛永15年)肥前国有馬城之絵図 [寸法 132.0×152.5cm]【熊本大学所蔵 松井家文書】
細川家第一家老松井家に伝来した文書群に含まれる本絵図は、島原一揆における幕藩軍の原城(有馬城)攻めの様相を描く。城攻めに加わったすべての大名家及び幕府衆らの陣が色分けされ、塀際の堀道など籠城側の防御施設も多く書き込まれている。伝来状況からみて、松井興長らが統括する細川家の論功の場で家臣の申請内容を検証するために作成された絵図と推察される。
本絵図の最大の特徴は、各大名家の仕寄場(城攻め持場)の状況を極めて具体的に描いている点にあり、その描写の多くが同時代の文書史料の内容と合致する。また、臼杵藩主稲葉家に本図の写とみられる絵図が伝存することも、本絵図のオリジナル史料としての価値の高さを示す。今次の修復事業によって展示可能なレベルにまで甦った。
(解説:稲葉継陽 永青文庫研究センター長)境界線を右左に動かすと修理前・修理後の画像の比較ができます
慶長13年正月8日 細川忠興駿河御普請中掟 [寸法 47.0×127.8cm]【熊本大学所蔵 松井家文書】
関ヶ原合戦からわずか7年余りのち、幕府は細川家を含む西国諸大名を駿府城普請に動員した。そのとき、忠興が細川家の現場責任者4名に対して、駿府の普請場で守るべき規律を書き上げ、交付したのが本文書だ。檀紙を2枚張り合わせた様式が細川家当主の掟書にふさわしい体裁を示している。
全体に一貫するのは、他大名の普請衆との「喧嘩」につながる可能性のある行為の徹底禁止で、宴会や相撲、それに他家の風呂に入ることさえ厳禁している。駿府城普請掟の原本としては毛利輝元制定のもの(毛利家文書)が知られ、本文書の発見はそれに次ぐもの。内容にも共通点が多く、幕府から諸大名に掟の見本が示された可能性が高い。数年前の敵味方どうしを城普請に動員して共同の作業に従事させることは、「天下泰平」の確立のための幕府の戦略であった。
(解説:稲葉継陽 永青文庫研究センター長)境界線を右左に動かすと修理前・修理後の画像の比較ができます
(慶長14年)正月17日 細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第) [寸法 36.3×92.4cm]【熊本大学所蔵 松井家文書】
慶長14年(1609)4月、細川忠興の子息で後に細川家初代熊本藩主となる忠利は、徳川秀忠娘(実は小笠原忠真娘)の千代と婚礼をあげる。本文書は、時の細川家老松井康之と加々山興良が忠興の意をうけて、一族重臣衆とその女房衆から千代姫へ進上する祝儀の品を個別に書き上げ、重臣らに回覧させ、確認の花押(サイン)を取ったもの。
たとえば忠興の弟である中務殿(長岡孝之)の場合、本人と御内儀(妻)がそれぞれ縫泊・練貫の小袖各1を進上すると定める。祝儀の品をめぐるトラブルを事前に避けるため、将軍の娘との婚礼についての先例や細川重臣どうしの格式などを踏まえて忠興と家老衆のもとで調整がなされ、その案に、各自の確認が求められたのであろう。慶長期の細川重臣の花押を通覧するのも楽しい文書である。
(解説:稲葉継陽 永青文庫研究センター長)境界線を右左に動かすと修理前・修理後の画像の比較ができます
境界線を右左に動かすと修理前・修理後の画像の比較ができます