- 外題
-
津田静一書簡
- 文書群名
-
幸家文書
- 所蔵機関
-
永青文庫研究センター
- 内容
-
洋学校教師の人選
- 年代
-
1870年10月15日
- 目録番号
- 一紙47
アメリカの地で洋学校教師の人選に尽力しています
明治維新後、西洋の学問を学ぶ教育機関として、各地で洋学校が開設された。熊本藩でも、明治3年閏10月に洋学所が設立され、廃藩後の翌4年9月に熊本洋学校と改称された。
新出の本史料は、アメリカ留学中の熊本藩士津田静一が父の津田山三郎に宛てた1870年10月15日(明治3年9月21日)の書状。静一は、熊本の元田永孚からの書状で細川護久による藩政改革を知らされている。注目すべきは、熊本藩の「英学校」(洋学校)教師をアメリカから雇い入れるため、その人選に尽力するよう横井大平から依頼があり、静一自身がもっぱら「探索」しているとの記述である。大平は小楠の甥で、アメリカ留学経験を持ち、当時は洋学校の設立準備に奔走していた。明治3年9月の時点で、アメリカで洋学校の教師探しが始められていた事実は、本史料で初めて確認されたものである。(今村)
「私共より茂人選等尽力仕候様、横井大平より申越し、被不及専ら探索仕居申候」
熊本藩の洋学校教師をアメリカから雇い入れるため、その人選に尽力するよう横井大平から依頼があり、静一自身がもっぱら「探索」しているという記述。
他の資料を見る