館内展示(1階 ラーニングコモンズ)
江戸時代はキリスト教の信仰が禁止され、禁教政策が制度的に整備された時代でした。禁教社会を維持するために、幕府は全国へ取り締まりを命じ、各大名はキリシタンの摘発を徹底します。北部九州を中心として行なわれた絵踏や、全国規模で実施された宗門人別改や寺請制度などはその一例です。
本企画展では、キリシタンではないことの証明として機能した踏絵と起請文を通して、禁教社会の実態に迫ります。
企画展名物!『解説シート』

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
これは、日本国憲法第20条の条文で、いわゆる「信教の自由」について規定している。第19条の思想・良心の自由とならび、人間の尊厳を保障している条文である。今日では当たり前のこととして定着しているこの考えも、江戸時代では様相が異なっていた。
幕府や藩は、一向宗や日蓮宗不受不施といった特定宗教を取り締りの対象としていた。これにあわせて、キリスト教に関しても宣教師などの布教者はもとより、信仰者(キリシタン)も捕縛し、厳しく改宗を迫ったり、刑に処すこともあった。その履行にあたっては、当時の立法手続きに従って禁教を法制化し、合法的に展開していた。治者が宗教を取り締まっていた背景には、人民統制の妨げになること、ひいては国内権力に反目する可能性のある予備軍として位置付けられたことがある。常に、宗教や思想、信条といった目に見えない“モノ”に対して畏怖していた当時の支配者の姿が浮き上がる。
江戸時代の禁教政策の柱となったのは宗門改である。町や村の構成員を檀那寺に所属させる寺請制度、相互に監視させる五人組制度、北部九州をはじめとする一部の地域では踏絵も実施された。こうした政策は外形的にキリスト教禁教を遵守している状態を創出したが、これに応じていればキリシタンではないことの証明となる大義を得ることになった。幕府や藩のこれらの政策は、人間の内的部分に踏み込んだものではなかったことは、“潜伏キリシタン”の存在などから裏付けられる。つまり、キリシタンたちは禁教政策を凌駕した強い精神力をもって信仰を保持していたのである。一方、キリシタンたちを徹底的に取り締まっている事実は、当時、日本に訪れていた外国人たちには稀有に映っており、様々なツールで発信された。
そこで本展では、幕府、そして熊本藩が展開したキリシタン政策について取り上げる。各地で一様ではなかったキリシタン政策を実物資料から紐解いていきたい。2018年に「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたが、本展を通じて理解が進む一助となれば幸いである。
令和元(2019)年7月30日
熊本大学大学院人文社会科学研究部
准教授 安高 啓明